凡人のブログ

ほぼ独り言です。

確率では測れない怖さ

ぼんやりとネットニュースを眺めていたら、新型コロナウイルスのワクチンを接種した26歳の女性が死亡したというニュースが目に留まった。ワクチン接種と死亡の因果関係はまだわからないそうだが、20代の僕は、ワクチンを接種するのが怖くなってきた。

 そのあと、「ワクチン 死亡」と調べてみたら、日本で新型コロナワクチン接種後に死亡したのは、39件で、ワクチン接種者数全体の423万件で割ると、ワクチン接種後に死亡する確率は、0.001%に満たないとわかったが、なぜか安心できなかった。(39件の死亡もワクチン接種との因果関係はまだわかっていないことを追記しておく)

 僕にはこういう経験が往々にしてある。ちょっと頭痛がすると、脳梗塞じゃないかと疑ったり、胸が痛むと、心筋梗塞じゃないかと心配になったりするのだ。20代の僕が、脳梗塞や、心筋梗塞になる可能性は極めて低い。しかし、脳梗塞心筋梗塞で、20代が死ぬ確率はゼロではないのだ。

 こういった、起こる確率が極めて低いが、ゼロではないことを恐れる癖を、なんとか直したいものだ。

働きたくはないが内定は欲しい

僕は現在大学4年生で、就活中だ。いまだに内定をもらえていない。世間的に見れば、そこそこ頭のいいとされる大学に通っているので、周りの人たちはみんな一個か二個は内定(まだ内定を出してはダメな時期だから内々定になるのか?)を貰っている。

 そんな環境にいると、かなり強い焦りを感じる。早く内定をもらわなきゃいけない。毎日そんなプレッシャーを感じている。

 しかし、よく考えてみれば、僕は別にそんなに働きたいわけじゃない。というより、働かずに食っていければそれが本望だ。それなのに、なんでこんなに内定が欲しいんだろうか。考えてみれば不思議な話だ。

 こんなことをぼんやりと考えていたら、内定が欲しいということと、就職したいということは、なにか違う次元の話のような気がしてきた。

 ほとんどの就活生は、働きたくないと思いながら、内定を求めているだろう。それには、働かなくては食っていけないという、現実的な理由もあるが、それ以上の理由もあるような気がする。内定をもらうという事には、なんとか食い扶持を確保することができたという事以上の意味があるような気がするのだ。

 エントリーシートを送り、何回か面接をするという作業の中で、採用担当者が就活生の何を見ているのかというと、コミュニケーション能力や人間性だろう。それらが、その会社で働く上で、申し分ないと判断された場合、内定が出される。

 つまり、内定というのは、食い扶持が確保できたという保証であるだけではなく、世間的に使える人間、認められた人間という証明書みたいなものなんだろう。いまだに内定がもらえていない僕は、その証明書を貰えていないことになる。

 こんな駄文を書いていないで、人間性を磨くべきか。

散歩のすばらしさ

最近僕は、毎朝30分外に出て、散歩をするようにしている。朝日を浴びると、セロトニンが分泌されて、うつ病の症状が緩和されるという話を聞いたからだ。

 まだ、うつ病が緩和されているかどうかの実感はないが、散歩をすることはいいもんだとしみじみ思う。

 まず第一に、規則正しい生活を送れるようになる。今までは、就活中で授業もほとんどないので、深夜3時ごろに寝て、昼ごろ起きるという生活を続けていたが、朝散歩する習慣をつけるようになってからは、遅くても12時までには寝て、朝7時に起きるようになった。早起きすると、時間を有効活用できるような気がして、気分がいい。

 また、外の景色を眺めるというのも、なかなか気持ちいい。顔をあげて、外を歩くと、今までは気にも留めなかった、いろいろなものが見えてくる。青々と茂った木や小鳥。そういったものを見ると、心が癒される。ありきたりな言葉だが、自然ないいなあとつくづく思う。

 今まで、大半のことが三日坊主で終わっていた僕だが、散歩の習慣だけは、一か月以上続いている。また、今後も続けていこうと思う。

なぜうつ病の苦しさは理解されないのか?

僕は現在、心療内科うつ病と診断され、抗うつ薬抗不安薬を処方されている。しかし、周りの友人には、心療内科に通院しているという事さえ打ち明けられないでいる。

その理由は、二つある。一つ目は、心療内科に通院していると知られたら、引かれるんじゃないかという恐れがあるからで、二つ目は、うつ病と診断されているとバレたら、うつ病なんか甘えじゃないかと言われるような気がして、それが怖いからだ。

 今回は、二つ目の理由、つまり、うつ=甘えという言説について考察してみたい。実際、検索エンジンうつ病と打ち込むと、予測変換で「うつ病 甘え」と出るぐらい、ネット上ではうつ病を、病気としてではなく、個人の気質の問題として捉え、根性論で克服することができるという言説があふれている。

 この問題に対し、多くの識者は、うつ病がれっきとした病気であり、甘えなんかじゃないということを解説するばかりで、なぜこういう言説が生まれるのかを分析している人は少ないように見える。

 そこで僕は、なぜうつ病=甘えという勘違いが生まれるのか、言い換えれば、なぜうつ病の苦しさが多くの人に理解されないのかということについて考えてみたい。

 僕が思ううつ病の苦しさが理解できない理由は、大きく分けて二つある。

 一つ目は、うつ病に明確な診断基準が無いという事だ。これは精神的な病全般に言えることかもしれないが、うつ病は、一般的に、検査ではなく、問診によって診断される。CTやレントゲン、血液検査などの客観的な指標ではなく、精神科医の主観のみによって、うつ病だと診断されてしまっているという現状が、うつ病なんて精神科医の前で演技すれば診断してもらえるんだろうという誤解を生み、うつ病=甘えという偏見ができる、大きな原因のような気がする。

 最近僕が読んだ本によると、うつ病は脳内の神経伝達物質であるセロトニンの不足によって引き起こされるらしい。脳科学、神経医学の進歩によって、客観的な数値でセロトニンの不足が示せるようになれば、うつ病=甘えという偏見はだいぶ少なくなるだろう。この分野のさらなる発展を期待したい。

 そろそろ二つ目の理由に移ろう。僕が考えるうつ病の苦しさが理解されない二つ目の理由は、うつ病の症状が、何もする気が起きない、体がだるいなど、うつ病にかかったことが無い人でも、誰もが経験したことがあり、尚且つそこまで辛い経験でないということだ。大半の人にとっては一晩寝れば治るそれらの症状が、うつ病患者の場合ずっと続く。比較的、軽いように見える、無気力や体のだるさなどの症状も、ずっと続いた場合の苦しさはかなり強い。しかしながら、その苦しさを、経験したことのない人に共有するのは難しい。この、苦しさを、経験したこのない人に共有するのが難しいという点が、うつ病=甘えという言説の大きな原因になっているような気がする。

 今回は、なぜうつ病の苦しさが理解されないのかというテーマで記事を書いてきたが、この作業はなかなか骨が折れた。なぜなら、僕はうつ病患者という当事者であり、うつ病なんか絶対にかからないし、そんなものは甘えだろうと思っている人の気持ちが全く分からないからだ。やはり自分とは全く異質な人の気持ちを知るのは難しい。そう考えると、経験したことが無い人が、うつ病なんか甘えだろうという気持ちが少し理解できるような気がした。

エントリーシートはどこまで嘘が許されるのか?

今回は、就活において、必ず書かねばならないエントリーシートに、どこまでの嘘なら書いても許されるのかという事を考えてみたい。

 一般的に言って、嘘なんか書かないほうが良いに決まっているが、全く嘘を書いていない就活生なんか、ほとんどいないだろう。大半の就活生は、多かれ少なかれ、エントリーシートに嘘を書いている。特に、性格など客観的な判断が難しい項目には、自分をよく見せるような嘘が書かれがちである。

 そこで、どこまでの嘘ならOKなのかを考えてみることにする。

 よく、就活ハウツー本なんかで書かれているのは、1を10にする嘘はOKだが、0を1にする嘘はNGだということだ。つまり、自分が一応は経験したことがあることを大げさに表現するのは許されるが、経験してもいないことを書くのはダメという事だ。確かに、この判断基準は適切なような気がする。バイトした経験をしたことがある人が、自分はバイトリーダーだったと書いたり、サークルに入っていた人が、副部長だったと書くのは嘘であっても許されそうだが、やってもいないバイト経験を書いたり、入ってもいない部活経験を書くのは完全にアウトな感じがする。

 しかし、この基準には一つの大きな盲点がある。それは、性格などの、経験以外のことにはあてはめられないという事だ。就活では、社交的で積極的な人間が求められるが、社交性や積極性というものを測る客観的な物差しはない。つまり、主観的に、その人が自分を社交的で積極性があると思っている限り、たとえ外から見ればその人がどんなに内向的で消極的に見えたとしても、嘘にはならないのだ。

 ここまでの話をまとめると、エントリーシートに、自分が経験したことを誇張して書くのはOKで、経験してもいないことを書くのはNG、性格などについては自覚していることなら、客観的にみて違うように見えても書いてOKということになる。

 僕はエントリーシートに自分が積極的な性格だと書くが、それはセーフなのだろうか。自分の胸に聞いてみたらアウトなような気がしてきた。

なぜ僕は文章を書くのか

ここ最近僕は毎日のようにせっせと文章を書いている。テーマは僕が体験している就活のこと、僕が影響を受けた本のことなど、個人的なものが多い。

今日も今日とて文章を書いていたら、ふと、自分はなぜ文章を書くだろうという疑問が浮かんできた。別に誰に強制されたわけでもないし、食事や睡眠のようにしないと生死に関わるわけでもない。そんな一切必然性のない行為をなぜ自分は毎日行っているのだろう。

僕がなぜ文章を書くのかという個人的な疑問の答えを出す前に、まず、人はなぜ文章を書くのかという一般的な問題について考えてみたい。

人が文章を書く理由として、一般的なものしては、書かなくてはいけない必要性があるから(学校の宿題や仕事など)と、それを発表することで自己顕示欲を満たすという二つがあげられる。職業作家になると上記の二つの理由が合わさるんだろう。

なぜ人は文章を書くのかという一般的な問題の次は、なぜ自分が文章を書いているのかという個人的な問題に移りたい。

僕が文章を書く理由は、上にあげた、一般的な人が文章を書く二つの理由のどちらにも該当していない。別に書く必然性なんかないし、書いている文章はほとんど読まれていないから、自己顕示欲も満たせていない。まったくもって不思議な行為をしているとしか思えない。

なんとか自分の奇行の原因を特定しようと頭を捻って思いついたのは、この行為は一種の自己慰問なんじゃないかという考えだ。僕はほとんど読まれない文章をせっせと書くという、まったくもって無駄な行為を通して、自分を慰めているのではないだろうか。

就職活動で抱えたストレスを癒すために、そして書いている間は就職活動のことを忘れることができるからという、現実逃避的と自己慰問のために、僕は文章を書いているのだろう。

なぜ1990年代のサブカルチャーに憧れるのか

僕は1990年代のサブカルチャーが大好きだ。青山正明鶴見済高杉弾などの90年代サブカルを代表する文筆家や、山野一根本敬ねこぢるなどの、いわゆるガロ系と総称されるような漫画家たちの作品を愛読している。彼らも、まさか30年近くたっても、自分たちが書いたものを読む大学生がいるとは想定していなかっただろう。

僕は、彼らの作品が大好きで、彼らと同じ時代に生きて、自分もその中に入っていきたいと切実に思っている。なぜかくも90年代サブカルチャーは僕を引き付けるのか。今日はその問題について考えてみたい。

僕が90年代サブカルにあこがれを持つ理由として挙げられるのは、自分でも入っていけそうという参入障壁の低さと、今の社会に対する反発の二つだ。

まず一つ目の参入障壁の低さについて解説していきたい。当時のサブカル界を牽引していたのは、ミニコミ誌やガロなどのマイナーな雑誌で、僕のようなコミュニケーション能力が低そうな人間でも輪に入れそうな感がある。翻って現在の状況を見れば、サブカルチャーを牽引しているのは、大手、中堅出版社で、大学で部活に励み、コミュニケーション能力が高く、社交的な人間しか採用試験をパスできない。僕のような、いわゆる陰キャは門前払いだ。

そんな僕でも入っていって、活躍することができそうな感じがする、90年代サブカルシーンはとても魅力的に見える。

次に、二つ目の今の社会に対する反発について解説していきたい。

僕にとって今の社会は、とても窮屈だ。社交性があり、明るい人間が歓迎され、それとは対極にある僕みたいな人間は肩身が狭い。僕が憧れをもつ90年代の社会も、今と同じように窮屈だったのかもしれないが、当時は、僕みたいな人間でも受け入れてくれるサブカル村という居場所があったように見える。しかもそこで活躍することができれば、社会的認知を得られる。つまり、僕みたいな人間でも、うまくやれば活躍できるように見えるのだ。

確かに、今も匿名掲示板など、参入障壁が低く、僕のような人間でも入っていけそうな空間はあるが、そこでいくら活躍したところで、社会的認知を得られることはない。しかし90年代は、僕のような人間でも入っていき、活躍すれば社会的認知を得られるようなシーンがあったように見える。それがなんとも魅力的に見えるのだ。

以上僕が90年代サブカルチャーに憧れる理由は書いてみたが、僕自身は90年代を生きていないので、90年代に関する記述はどこまでも伝聞と推定に頼ったものになってしまった。もしかしたら、90年代や、その時代のサブカルチャーは、僕が思い浮かべているのとまったく違うのかもしれないが、僕の目にはどうしても魅力的にうつってしまう。90年代を生き、サブカルチャーを経験したかったなあ、切実にそう思う。