凡人のブログ

ほぼ独り言です。

なぜ1990年代のサブカルチャーに憧れるのか

僕は1990年代のサブカルチャーが大好きだ。青山正明鶴見済高杉弾などの90年代サブカルを代表する文筆家や、山野一根本敬ねこぢるなどの、いわゆるガロ系と総称されるような漫画家たちの作品を愛読している。彼らも、まさか30年近くたっても、自分たちが書いたものを読む大学生がいるとは想定していなかっただろう。

僕は、彼らの作品が大好きで、彼らと同じ時代に生きて、自分もその中に入っていきたいと切実に思っている。なぜかくも90年代サブカルチャーは僕を引き付けるのか。今日はその問題について考えてみたい。

僕が90年代サブカルにあこがれを持つ理由として挙げられるのは、自分でも入っていけそうという参入障壁の低さと、今の社会に対する反発の二つだ。

まず一つ目の参入障壁の低さについて解説していきたい。当時のサブカル界を牽引していたのは、ミニコミ誌やガロなどのマイナーな雑誌で、僕のようなコミュニケーション能力が低そうな人間でも輪に入れそうな感がある。翻って現在の状況を見れば、サブカルチャーを牽引しているのは、大手、中堅出版社で、大学で部活に励み、コミュニケーション能力が高く、社交的な人間しか採用試験をパスできない。僕のような、いわゆる陰キャは門前払いだ。

そんな僕でも入っていって、活躍することができそうな感じがする、90年代サブカルシーンはとても魅力的に見える。

次に、二つ目の今の社会に対する反発について解説していきたい。

僕にとって今の社会は、とても窮屈だ。社交性があり、明るい人間が歓迎され、それとは対極にある僕みたいな人間は肩身が狭い。僕が憧れをもつ90年代の社会も、今と同じように窮屈だったのかもしれないが、当時は、僕みたいな人間でも受け入れてくれるサブカル村という居場所があったように見える。しかもそこで活躍することができれば、社会的認知を得られる。つまり、僕みたいな人間でも、うまくやれば活躍できるように見えるのだ。

確かに、今も匿名掲示板など、参入障壁が低く、僕のような人間でも入っていけそうな空間はあるが、そこでいくら活躍したところで、社会的認知を得られることはない。しかし90年代は、僕のような人間でも入っていき、活躍すれば社会的認知を得られるようなシーンがあったように見える。それがなんとも魅力的に見えるのだ。

以上僕が90年代サブカルチャーに憧れる理由は書いてみたが、僕自身は90年代を生きていないので、90年代に関する記述はどこまでも伝聞と推定に頼ったものになってしまった。もしかしたら、90年代や、その時代のサブカルチャーは、僕が思い浮かべているのとまったく違うのかもしれないが、僕の目にはどうしても魅力的にうつってしまう。90年代を生き、サブカルチャーを経験したかったなあ、切実にそう思う。